みことばに心を留める者は幸いを見つける。主に拠り頼む者は幸いである。(箴言1620節)

1.箴言35節―6
2.ピリピ人への手紙46節−7節
3.テモテへの手紙第二3章16節ー17節
4.ペテロの手紙第一57節―10

主はアブラハムが九十九歳になったときご自身について「わたしは全能の神である。」と仰せられてから「わたしは、この、わたしの契約をあなたと結ぶ。あなたは多くの国民の父となる。あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたをいくつかの国民とする。(創世記17章4節―7節)」と約束されたにもかかわらず、驚くべきことに「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。(創世記22章2節)」と仰せられ試練に会わされたのですが、アブラハムもイサクも素直にみことばに従ったので、主は「あなたの手を、その子に下してはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」と仰せられたのでした。神のことばに従うことができたのは信仰によるものであったことをヘブル人への11章17節は語っていますが、その信仰は、主の契約を握りしめ、全能の神と言われた主に拠り頼むことによるものだったのではないでしょうか。パウロはアブラハムの信仰について度々ふれています。今日の聖句は「みことばに心を留める者は幸いを見つける。主に拠り頼む者は幸いである。」と、幸いな者はどのような人なのか、幸いなことは何なのかを語っています。主は全能者であることを心に据えて、アブラハムのようにみことばを素直に受け入れ、心を疲れさせ、元気を失わせるような思い煩いや心配事などを主に明け渡して心と思いが守られるように、主から与えられている信仰を働かせて主に拠り頼んで歩もうではありませんか。