あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。(コリント人への手紙 第二8章9節)

1.ヨハネの福音書107節―11
2.コリント人への手紙第二61節―10
3.ピリピ人への手紙26節―8
4.ピリピ人への手紙3章17節―21節

イエス様は人々に「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」と仰せられてから「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして自分のたましいにこう言おう。『たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。』しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」とたとえ話をもって(ルカの福音書12 章16節ー21節)、どんなに物質的に富んでいても富む者ではないことを語っていますが、神の恵みを知ったパウロが「神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。(エペソ人への手紙1章3節)」と、ペテロが「あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」と語っているように、主が与えてくださる富や栄光は死によって失われてしまうようなものではなく永遠のものですが、それが可能になったのは今日の聖句が「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」と語っているように、神でありながら罪深い人間と同じような形でこの世に遣わされ十字架の死にまで従われたイエス様のゆえであることを、世の富に心を奪われないように、恵みによって救われていることを、本当の意味で富む者とされていることを心に据えて生活しようではありませんか。