すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。(ヘブル人への手紙12章11節)

1.マタイの福音書715節―23
2.ヨハネの福音書151節―8
3.ピリピ人への手紙1章9節ー11節
4.ペテロの手紙第一1章5節ー7節

イエス様は「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことができません。」と、イエス様との関係がない限り結ぶことのできない実があることを語るとともに、そのような実は残るものであることを語られました(ヨハネの福音書15章4節及び16節)が、それは、ガラテヤ人への手紙5章22節―23節が「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」と語っているように、御霊はイエス様を信じることによって与えられるものであり(ヨハネの福音書7章39節)、今日の聖句の「義の実」をつけるためには、ローマ人への手紙3章23節―24節が「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」と語っているようにイエス様との関係が不可欠であるからです。主はダビデにダビデの子孫が罪を犯すときには人の杖、人の子のむちをもって懲らしめるけれども、恵み(口語訳、新共同訳:いつくしみ、英語:愛)を取り去ることはないことを約束されました。試練に会うことがあったり、間違いをして自己嫌悪に陥ったり、誤解されて悩むようなことがあっても、義人とされていることを心に据えて平安な義の実を結ぶために、悔い改めることは悔い改めるとともに十字架の恵みを感謝し、主の恵みと平安の中にとどまるようにしようではありませんか。