義を知る者、心にわたしのおしえを持つ民よ。わたしに聞け。人のそしりを恐れるな。彼らのののしりにくじけるな。(イザヤ書51章7節)

1.イザヤ書537節―12
2.マタイの福音書5章1節ー12節
3.使徒の働き4章16節ー 31節
4.コリント人への手紙第二6章1節ー10節

イエス様は「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」とご自身を一粒の麦にたとえられてから「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。父よ。御名の栄光を現してください。」と祈られたのですが、そのとき、「わたしは栄光をすでに現したし、またもう一度栄光を現そう。」と天からの声、すなわち、父なる神が語られましたが(ヨハネの福音書12章24節及び27節―28節)、それは、イエス様がユダヤ人たちに「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。また、これよりもさらに大きなわざを子に示されます。それは、あなたがたが驚き怪しむためです。(ヨハネの福音書5章19節)」と話されたように、数々のいやしをもって神は栄光を現されましたが、もう一度、すなわち十字架の死と復活を示唆されたのではないでしょうか。十字架にかけられたイエス様に対して人々はあざけったり、ののしったり、悪口を言いましたが、言い返すようなことはなさらないばかりか、彼らのために「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです(ルカの福音書23章34節)」ととりなされたのでしたが、その秘訣は「もう一度栄光を現そう。」というみことばに生きられたからではないでしょうか。今日の聖句が「義を知る者、心にわたしのおしえを持つ民よ。わたしに聞け。人のそしりを恐れるな。彼らのののしりにくじけるな。」と勧めているように、パウロがほめられても、そしられても、悪評を受けたり、好評を博したりしても、人のことばに一喜一憂することなく主のしもべとして、主から与えらた使命に生きたように、神のみこころを現している聖書のことば、すなわちいのちのことばをしっかり握って生きようではありませんか。