ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。(ローマ人への手紙11章33節)

1.イザヤ書531節―12
2.イザヤ書556節―11
3.ローマ人への手紙56節―11
4.コリント人への手紙1章8節ー25 節

追って来たエジプト軍の手からご自分の民イスラエルを守るために主は紅海を分けられ、民が対岸に渡り終えると海水を戻されたのでエジプト人は一人残らず溺死したのでした。それを見た民とモーセが「主よ。神々のうち、だれかあなたのような方があるでしょうか。だれがあなたのように聖であって力強く、たたえられ恐れられ奇しいわざを行うことができるでしょうか。(出エジプト記15章11節)」と賛美したように、神は正義であり、聖なる方であり、罪をさばく方ですから、罪人を救うために神が人となってこの世に御降誕されご自身をささげることなどパリサイ人や律法学者たちだけでなく、人には理解できないことなのではないでしょうか。イエス様はご自分が神であることを語ったために、祭司長たちやパリサイ人、律法学者たちは神を冒涜していると思っただけでなく、イエス様をねたんで民を先導して彼らが待ち望んでいたメシアであるイエス様を十字架にかけて殺したのですが、死があっての復活でした。イエス様は死に勝利するいのちを示されただけでなく、昇天される前に、弟子たちに「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。(使徒の働き1章8節)」と仰せられたように、救いがユダヤ人だけでなく異邦人にまで及ぶ、という神の大いなるご計画があったのでした。そのことを知った(ローマ人への手紙11章25節−26節)パウロが「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。」と、語っているように、私たちには理解できないようなことがあっても、そこには主のご計画があることを心に据えて、箴言3章5節―6節が「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」と勧めているように主を信頼して生活しようではありませんか。