私は、私を強くしてくださる方によって、どんなこともできるのです。(ピリピ人への手紙4章13節)

1.コリント人への手紙 第一118節―25
2.コリント人への手紙 第一153節―11
3.エペソ人への手紙1章17節ー19節
4.ペテロの手紙 第二1章2節ー3節

パリサイ人として生き、自分の考えでキリスト者を迫害していたパウロは、キリスト者を迫害するために向かっていたダマスコの近くにまで来たとき、突然、天からの光が彼の上に臨んだことによって、目は開いていましたが何も見えなくなっていたので、彼は手を引いてもらってダマスコに着いたのでした。主はパウロの目を癒すだけでなく、聖霊に満たされるために、パウロがするべきことを伝えるためにアナニヤをパウロのもとに遣わしたのでした(使徒の働き9章1節―19節)。キリスト者となったパウロは同胞のユダヤ人から迫害されただけでなく、同じキリスト者からも非難されるようなことを経験しましたが、「十字架のことばは、滅びに至人々には愚かでもあっても、救いを受ける私たちには神の力です。・・・・私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。(コリント人への手紙 第一1章18節及び23節―25節)」と語っているように、もはや自分の力や考えではなく、キリストにある者として神の力、神の知恵で生きる者となり「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなこともできるのです。」と告白していますが、その根底にあるものは「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです(ガラテヤ人への手紙2章20節)」と、「神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかの使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。(コリント人への手紙 第一15章10節)」と語っているように、神の恵み、すなわち恵みを実現してくださったキリストにある者として生き続けたことによったのではないでしょうか。パウロのように、どんな時にも私たちに力や知恵を与えてくださる恵みに満ちた主を見上げて生活しようではありませんか。