神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(コリント人への手紙第二5章21節)

1.ローマ人への手紙319節―26
2.ローマ人への手紙718節―83
3.コリント人への手紙 第一1章26節ー31節
4.ガラテヤ人への手紙2章15節―21節

教会は「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイの福音書11章28節)」を掲げてきましたが、いつの間にか、イザヤ書43章4節の「わたしの目には、あなたは高価で尊い。」という部分のみが一人歩きして掲げられる背景に、十字架の解釈が少し違ってきているように思います。というのが、私たちは賛美のご奉仕をさせていただいた教会の礼拝でゲストの牧師先生が「神が御子を十字架にかけなくてはならないほど人間は高価で尊い存在なのです。」と話されたからです。イザヤ書43章1節の「あなたを形造った方、主はこう仰せられる。『恐るな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。』」という聖句が無視されるだけでなく、「わたしが、あなたの神、主。イスラエルの聖なる者、あなたの救いの主であるからだ。わたしは、エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセパをあなたの代わりにする。」という3節を受けて語られている、4節後半の「だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにする。」という部分が削除されている背景に、神は義なる方であることがなおざりにされてしまっているのではないでしょうか。イエス様は罪人を救うために来られたことを語っていますし、パウロは心の葛藤を覚え「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょう。(ローマ人への手紙7章24節)」と、語ってから、「どんな被造物も私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」と、十字架によって示された神の愛がどのようなものであるかを語っています。今日の聖句「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」を心に据えて、神の目に高価で尊い者は、贖われた者、すなわちイエス様を信じて神の義とされたキリスト者であることを感謝するとともに、みことばが正しく語られるように教職者のために祈ろうではありませんか。