御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。(ヨハネの手紙 第一5章12節―13節)

1.ヨハネの福音書31節―15
2.ヨハネの福音書638節―40
3.ローマ人への手紙8章18節ー24節
4.エペソ人への手紙2章1節ー9節

永遠の神はご自身のかたちとして人を創造されたゆえに、神から知恵を与えられたソロモンは神が人の心に永遠(口語訳:永遠の思い)を与えられていると語っています(伝道者の書3章11節)。ですから、キリスト教だけでなく、人間の知恵や世全体を支配している悪魔からのささやきを神からのものと勘違いした人々によって起こされたさまざまな宗教も死後について語っていますし、根本的に、人は肉体の死によってその存在が完全に無に帰すとは思っていないために、葬儀にはよく「天国でやすらかにお眠りください。」というような弔辞が述べられますが、人は死後、神にさばかれるのではないかという恐れがあるために死を恐れますが、その一方では、死んだらすべてが終わるというような考えが同居する矛盾した世界に人々は生きているのではないでしょうか。パウロは「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。(ローマ人への手紙12章2節)」と勧めています。この世や人の知恵では皆目見当がつかない罪や死について、永遠のいのちについて神のことばである聖書は明確に教えてくださっています。福音書のペテロは「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」と主に申し上げましたが、結局主が預言されたように彼は三度主を知らないと人々に語ったのですが、死からよみがえられた主を見て生ける望みを持つ者となり(ペテロの手紙第一1章3節)、人や死を恐れずに福音宣教の働きをされたのでした。今日の聖句は「御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。」と、永遠のいのちはイエス様との関係によって与えられるものであることを、永遠のいのちを持っていない世の人々と同じように生きるのではなく、永遠のいのちが与えられていることを自覚して生活するように勧めているのではないでしょうか。恐れの中におられる方々に福音が届き、キリストに出会うように祈ろうではありませんか。