ああ、神、主よ。あなたは大きな力と、伸ばした御腕とをもって天と地を造られました。あなたには何一つできないことはありません。(エレミヤ書32章17節)

1.創世記181節―15
2.民数記1116節―32
3.ルカの福音書128節―37
4.ルカの福音書18章18節―27節

一般人だけでなく知識人であっても何の疑問ももたずに神話を信じ、実体のない神ならぬものを神としたり、かつての偉人や鳥、獣の像を造ってそれを拝んだり、太陽を拝んだり、山を御神体と呼んで拝んでいることは不思議なことですが、コリント人への手紙 第一1章20節―21節は「知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。」と、語っています。一方、ヘブル人への手紙11章3節は「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。」と、信仰によってしか悟れない世界があることを語るとともに同章6節は「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」と、神ご自身がどのような方であるかを知る必要性を語っています。主はモーセを用いて多くの奇蹟を行いましたから、彼は神の偉大さを体験しているにもかかわらず、民の「肉が食べたい」というつぶやきを聞かれた主がモーセに一ヶ月間、民が吐きけを催すほど肉を一ヶ月間食べさせることを話されると、モーセは、それは無理なことでしょう、と言わんばかりのことを申し上げたのでした(民数記11章19節ー22節)。キリスト者もモーセのように自分の考えに固執すると、神の偉大さ、神の力を自分が考えている大きさに縮小し、小さな箱の中に押し込めてしまうようなことをしてしまうのではないでしょうか。今日の聖句「ああ、神、主よ。あなたは大きな力と、伸ばした御腕とをもって天と地を造られました。あなたには何一つできないことはありません。」はエレミヤの祈りの一文ですが、神が天地万物を創造されたこと、神には何一つできないことはない、ということを心に据えて生活することが今の時代、キリスト者が信仰で生きるために、とても大切なことではないでしょうか。