私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生じることを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。(ヤコブの手紙1章2節―4節)

1.ヨハネの福音書16章29節ー33節
2.ペテロの手紙 第一1 章5節ー7節
3.ペテロの手紙 第一412節―23
4.ペテロの手紙 第一5章7節―10節

主が教えてくださった祈りことばの中に「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」とありますが(マタイの福音書6章13節)、創世記22章1節には主がアブラハムにイサクをささげるように試練(口語訳:試み)に会わされたとあります。一方、イエス様は悪魔の試みを受けるために御霊に導かれて荒野に導かれたことをマタイの福音書4章は語っています。ヨブ記の1章と2章に、神はサタン、すなわち悪魔は、災いや病をもらたすことは許されてもヨブを殺すことは許されなかったように、神が許された範囲内でしか試みることはできませんが、悪魔の試みはエバを誘惑したように、またヨブが神をのろうことを目的に試みたように罪を犯させるように仕向けてくるのですが、今日の聖句が「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生じることを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」と語っているように、神からの試練は、信仰の深みへと導かれるものではないでしょうか。イエス様がご自分の死と復活について語られたとき、「主よ。神の御恵みがありますように、そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」と主のことばを否定するようなことを言ったペテロに、イエス様は「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」と、サタン、すなわち悪魔の働きについて語っています。ヤコブの手紙1章13節―16節は「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい。」と悪魔にだまされないように警告しています。「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」は、悪魔からの試みや悪魔の策略に陥らないように祈ることを主は教えてくださったのではないでしょうか。試みにあったとき、それが神からのものなのか、悪魔からのものなのかを判断する必要があるのではないでしょうか。