神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。(ローマ人への手紙8章33節―34節)

1.ヨブ記1619節―21
2.イザヤ書534節―12
3.ルカの福音書22章31節ー32節
4.ヘブル人への手紙711節―26

ゼカリヤ書3章1節―2節に「主は私に、主の使いの前に立っている大祭司ヨシュアと、彼を訴えようとしてその右手に立っているサタンとを見せられた。主はサタンに仰せられた。『サタンよ。主がおまえをとがめている。エルサレムを選んだ主が、おまえをとがめている。これは、火から取り出した燃えさしではないか。』ヨシュアは、よごれた服を着て、御使の前に立った。」と、大祭司でありながらよごれた服を着ていたのは、ヘブル人への手紙10章4節が「雄牛とやぎの血は、罪を取り除くことができません。」と語っているように、罪の赦しを得ても罪が取り除かれていなかったからでしたので、サタンはヨシュアを訴えようとしたのですが、主はヨシュアではなくサタンをとがめたのでした。今もサタンは主のもとにアクセスしてキリスト者を訴えようとしますが、主はとりなしていてくださるのです。ヨブに起こったわざわいを知った三人の友は悔やみを言って慰めようとヨブを訪ねたのですが、ヨブと見分けがつかないほどひどい状態であったので、彼らはヨブにさまざまなことを言って慰めるどころか悩ませたのですが、ヨブは「今でも天には、私の証人がおられます。私を保証してくださる方は高い所におられます。私の友は私をあざけります。しかし、私の目は神に向かって涙を流します。その方が、人のために神にとりなしてくださいますように。人の子がその友のために(ヨブ記16章19節―21節)」ととりなしてくださる神を見上げたのでした。自分を義人だと自任していたパリサイ人、律法学者や祭司たちは罪のないイエス様を罪に定めて十字架にかけたのでした。キリスト者も同じような間違いをしないように、すべてのキリスト者の信仰を完成してくださるのはイエス様であり、しかも、すべてのキリスト者のためにイエス様がとりなしておられることを忘れずに、ヨブの友達のように苦難の中にいるキリスト者を中傷するようなことのないようにするだけでなく、さまざな失敗をしたとき、自分で自分を責めて、十字架の恵みを無駄にしてしまうようなことをしないようにしようではありませんか。