人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らければならないほどのことも知ってはいないのです。(コリント人への手紙 第一 8章2節)

1.ローマ人への手紙1125節―36
2.コリント人への手紙 第一3章18節ー23節
3.テモテへの手紙 第一6章1節―6
4.テモテへの手紙 第一6章20節ー21節

イエス様が弟子たちに「このことばを、しっかりと耳に入れておきなさい。人の子は、いまに人々の手に渡されます。」と仰せられましたが、「しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。このみことばの意味は、わからないように、彼らから隠されていたのである。(ルカの福音書9章44節―45節)」とあります。足を洗う行為は奴隷の仕事でしたので、イエス様がペテロの足を洗おうとした時、ペテロが「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」と申し上げるとイエス様は「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」と、わからせてくださる時があること、聖霊がすべてのことを教えてくださることを話されました(ヨハネの福音書14章26節)。イエス様は弟子たちに「さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。(ルカの福音書24章49節)」と仰せられただけで、ユダの代わりの使徒を選ぶことをペテロ託さなかったにもかかわらず、ペテロは詩篇を引用してから「主イエスが私たちといっしょに生活された間、すなわち、ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした者の中から、だれかひとりが、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません。」と言い、くじを引いてくじに当たったマッテヤを使徒に加えたのですが、主は教会を迫害していたパウロを使徒とされたのでした(ガラテヤ人への手紙1章1節)。ペテロは「聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。(ペテロの手紙 第一1章20節―21節)」と語っています。聖書を私的解釈した人々によって多くの異端が起こされています。第三の天にまで引き上げられたパウロは「今、私は一部分しか知りませんが(コリント人への手紙 第一13章12節)」と語っています。今日の聖句「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らければならないほどのことも知ってはいないのです。」を心に据えて、霊的プライドに陥らない気をつけようではありませんか。