私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。(ガラテヤ人への手紙2章21節)

1.ヨハネの福音書1章14節ー17節
2.ローマ人への手紙319節―26
3.コリント人への手紙第一15章3節ー10節
4.ガラテヤ人への手紙2章15節―16節

パウロはキリスト者になるまではキリストを信じる信仰によって与えられる神の義を知らずに、律法による自分の義に生き、ステパノのメッセージを聞きながらもステパノを殺すことに賛成し、神の恵みを知らずにキリスト者を迫害していたのですが、キリスト者となったパウロは「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」と、「私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。ところが、神の恵によって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。(コリント人への手紙 第一15章9節―10節)」と、十字架の意味を理解する者、神の恵みを知る者となったのですが、それこそが神の恵みであることを語っているのではないでしょうか。パウロは「私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。・・・私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。(コリント人への手紙第一9章23節及び27節)」と語っていますが、福音の恵に生きるための努力、すなわち自分の義ではなく恵みに生き続ける努力を意味しているのではないでしょうか。今日の聖句「私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」もパウロのことばです。恵みを無にしないために、キリストの死を無意味にしないために、十字架の死にまで従われ、恵みとまことを実現してくださった主を仰ぎ見て恵みの中を生き続けようではありませんか。