私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。(ガラテヤ人への手紙2 章20節)

1.ローマ人への手紙64節―11
2.コリント人への手紙 第二 5章15節ー17節
3.ガラテヤ人への手紙516節―24
4.コロサイ人への手紙3章2節ー4節

イエス様が「では、あなたがたは、わたしをだれと言いますか。」と尋ねると、ペテロが「神のキリストです。」と答えると、イエス様はこのことをだれにも話さないように戒めて命じられてから、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。(ルカの福音書9章23節)」と、キリスト者が負うべき十字架について語っています。イエス様が負われた十字架は罪の贖いのためでしたが、パウロが「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」と語っているように、キリスト者が負うべき十字架は、生まれながらの古い自分に生きるのではなく、イエス様が聖霊なる神として内住しておられがゆえに、聖霊の宮であることを、神の愛と恵みを忘れず、イエス様によって与えられた信仰に生きることを意味しているのではないでしょうか。悪魔はキリスト者に触れることはできませんが、火の矢を射ってきます(ヨハネの手紙 第一5章18節、エペソ人への手紙6章16節)。彼は私たちの弱点をついて来ますので、私たちは恐れたり、苦悩したりしますが、その時こそ、古い自分に生きているか、キリストに生きているか、主を信じているかどうかが試されるのではないでしょうか。コロサイ人への手紙3章2節―3節「あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。」を心に据えて、世の人々のように自己主張をして生活するのではなく、生まれながらの古い自分は死んでいるということを思い起こし、天には信仰がなくならないようにとりなしていてくださるだけでなく信仰を完成してくださるイエス様がおられることを感謝し、恐れをもたらす問題や苦悩する問題、私たち自身を主の手に委ね、主を信頼して生活しようではありませんか。