主は生きておられる。ほむべきかな。わが岩。あがむべきかな。わが救いの神(詩篇18篇46節)

1.ローマ人への手紙828節―34
2.コリント人への手紙 第一 153節―20
3.ペテロの手紙 第一1章3節ー9節
4.黙示録1    1節―19

イエス様が「このことばを、しっかりと耳に入れておきなさい。人の子は、いまに人々の手に渡されます。(ルカの福音書9章44節)」と仰せられても、エルサレムで長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらければならないことを話されても、弟子たちには理解できないことでした。ですから、マグダラのマリアが、嘆き悲しんで泣いている人たちのところに行き「イエスが生きておられ、お姿をよく見た。」と言っても信じようとしなかったのでした。また、そのうちのふたりがいなかのほうへ歩いていたおりにイエス様がご自分を現されたことを残りの人たちのところへ行って知らせても、彼らは信じなかったのですが、弟子の十一人が食卓に着いているところにイエス様は現れ、彼らがよみがえられたイエス様を見た人たちの言うことを信じなかったので、彼らの不信仰とかたくなな心を責められたことがマルコの福音書16章9節―14節に記載されています。ペテロは人を恐れて三度イエス様を否定しましたが、よみがえられた主にお会いしたことと聖霊に満たされたことによって、彼は大胆に主を証しする人に変えられたのでした。サウロとも呼ばれていたパウロもナザレイエスの名に強硬に敵対すべきだと考えてキリスト者を迫害していましたが、キリスト者を迫害するために向かっていたダマスコの途上で「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。」と声をかけられ、主が生きておられることを知ることになり「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。(ローマ人への手紙8章34節)」と語る者へと変えられたのです。弟子やマリアのように死からよみがえられた主を見ていなくても、パウロのようにイエス様の声を直に聞いていなくても、今日の聖句が「主は生きておられる。ほむべきかな。わが岩。あがむべきかな。わが救いの神」と勧めているように、ペテロのために祈られたように私たちの信仰がなくならないように、罪に定められないようにとりなしていてくださる救いの神である主は生きておられることを感謝し、主を誉めたたえて生きようではありませんか。