心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。(箴言3章5節―6節)

1.マタイの福音書1027節―31
2.ローマ人への手紙11章25節ー36節
3.ヘブル人への手紙12章2節ー13節
4.ペテロの手紙第一5章7節ー11節

主は人に考える力を与えられましたが、それをどのように使うかによって生き方が大きく変わってくるのではないでしょうか。エバは、神が食べるのを禁じられた善悪の知識の木から取って食べても決して死なないどころか、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになる、と言った悪魔の偽りのことばを聞いてから、その木を見て「その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましく思えたのでその実を取って食べただけでなく、そばにいたアダムにも与えたので、アダムも食べて罪を犯したのですが、そのことによって彼らは自分たちが裸であることを知り、自分たちの考えでいちじくの葉をつづり合わせて自分たちの腰のおおいを作り、神である主の声を聞くと、主の御顔を避けて園の木の間に身を隠したのでした(創世記2章17節、創世記3章1節―6節)。一方、主から「あなたに何を与えようか。願え。」と言われたソロモンは「善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、このおびただしいあなたの民をさばくことができるでしょうか。」と、自分で判断することよりも、主に拠り頼んだのでしたが、それは主の御心にかなったねがいであったので、は「あなたがこのことを求め、自分の長寿を求めず、自分のために富を求めず、あなたの敵のいのちをも求めず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を求めたので、今、わたしはあなたの言ったとおりにする。見よ。わたしはあなたに知恵の心と判断する心とを与える。」と約束されたのでした(列王記 第一3章3節―12節)。ヨブ記の1章と2章を見ると、自然災害や病そのものはサタンの働きであることがわかりますが、サタンを見るのではなく、ヨブを攻撃することを許された、だけでなくそのことさえもヨブが「私はあなたのうわさを耳で聞いていましたが。しかし、今、この目であなたを見ました。(ヨブ記42章5節)」と告白しているように、どんなできごとにも益としてくださる神の存在を忘れてはならないのではないでしょうか。今日の聖句が「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」と勧めているように、神が主権者であることを認め右往左往することなく、信仰の完成者である主のことを考えて生活しようではありませんか。