霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。すべての懲らしめは、そのときには喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人に平安な義の実を結ばせます。

1.イザヤ書329節―18
2.ピリピ人への手紙19節―11
3.ヤコブの手紙3章13節―18節

イエス様は「にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。あなたがたは実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。(マタイの福音書7章15節―18節)」と、どんな実を結ぶかは、どんな木につながっているかによるものであることを話されました。イエス様は弟子たちに「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。(ヨハネの福音書15章4節)」と、実を結ぶためにはイエス様との関係が不可欠であることを話されました。ところで、ガラテヤ人への手紙5勝22節―23節には「御霊の実」について語っていますが、今日の聖句は「すべての懲らしめは、そのときには喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人に平安な義の実を結ばせます。」と、「神の義」について語っています。イザヤ書32章9節―14節は悔い改めを促してから、「しかし、ついには、上から霊が私たちに注がれ、荒野が果樹園となり、果樹園が森とみなされるようになる。公正は荒野に宿り、義は果樹園に住む。義は平和をつくり出し、義はとこしえの平穏と信頼をもたらす。(15節―17節)」と霊が注がれることによってもたらされ義の実について語っています。イエス様は「種は神のことばです。」と話されてから「いばらの中に種を蒔かれるとは、こういう人たちのことですーみことばを聞いてはいるが、世の心遣いや、富の惑わし、その他のいろいろな欲望が入り込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。(マルコの福音書4章18節―19節)」と仰せられました。今日の聖句は「霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。すべての懲らしめは、そのときには喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人に平安な義の実を結ばせます。」と「義の実」について語っています。私たちの父である神は私たちを守るだけでなく、主と同じように聖くなるように、神の義とされているキリスト者(コリント人への手紙 第二5章21節)が、信仰の完成者であるイエス様から目を離して、世の人々と同じように自分の義に生きて義の実を結ばないようなことにならないように、平安な義の実を結ぶように主が働かれていることを心に留めて生きようではありませんか。