わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。なぜ、私の前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の顔の救い、私の神を。(詩篇42篇11節)

1.詩篇2711−14
2.イザヤ書4027節―31
3.哀歌3章22節―41節

昨年は台風19号が日本を襲い、今年は新型コロナウイルスが終息しない中、大雨が九州や中部地方を襲い、多大な被害が及んでいる報道を見ながら「人が獅子の前を逃げても、熊が彼に会い、家に入って手を壁につけると、蛇が彼にかみつくようなものである。(アモス書5章19節)」を思い起こしましたが、その前後の聖句には多くのキリスト者は日本のリバイバルのために祈り主を待ち望んでいるのに、「ああ。主の日を待ち望む者。主の日はあなたがたにとっていったい何になる。それはやみであって、光ではない。・・・ああ、まことに主の日はやみであって、光ではない。暗やみであって、輝きではない。(アモス書5章18節及び20節)」と,いう主のことばがあります。ところで、創世記1章1節―2節には光がある前にやみがあることを、5節には「夕があり朝があった。第一日」とあります。私たちは朝起きてからから一日が始まるように思いますが、実は午前0時、すなわちやみが一番深い時に1日が始まっているわけです。イエス様が十字架にかけられると太陽は光を失い、全地は三時まで暗くなりましたが、神殿の幕が真っ二つに裂けただけでなく、イエス様は死からよみがえられて主の栄光を現され、キリスト者はどなたでも聖所に入ることができる新しい生ける道を設けてくださったのでした。世の人々は「こんなことが起こるなんで神も仏もいない。」と言いますし、「おまえの神はどこにいるのか」と言われることもあるのではないでしょうか。「おまえの神はどこにいるのか」と言われたダビデは色々考えましたが、暗い顔から救ってくださる主を見上げ「主を待ち望む」生き方をされたのでした。やみが濃ければ濃いほど、どんなに小さな光であっても希望を与えます。キリスト者は世界の光です。主は日本にリババルをご用意されているのではないでしょうか。被災された方々、医療に携わっておられる方々やボランテイアの方々がコロナウイルスから守られるだけでなく、彼らの救いのために主に期待し、主を待ち望んで祈ろうではありませんか。