主よ。あなたは私を探り、私を知っておられる。(詩篇1391節)

1.ルカの福音書2231節―34
2.ヨハネの福音書1619節―33
3.ヨハネの福音書21章15節―17節

イエス様が弟子たちに「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると羊の群れは散り散りになる』と書いてあるからです。しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」と仰せられると、ペテロは「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」と申し上げると、イエス様は「まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」と言われましたが、ペテロが「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」と言うと、弟子たちもみなそう言ったのでした(マタイの福音書26章31節―25節)。しかし、主のおことばどおりになったのでした。イエス様は弟子たちがイエス様を愛しておられること、神から出て来た者であることを信じていることをご存知でしたが(ヨハネの福音書16章27節)、弟子たちの弱さもよくご存知でした。人はとかく自分のことは自分が一番わかっているように思いがちですが、今日の聖句が「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられる。」と語っているように、私たち自身以上に主は私たちを、私たちの弱さをよくご存知でペテロのために祈られたように信仰がなくならないように(ルカの福音書22章32節)、罪に定められないようにとりなしておられるのです(ローマ人への手紙8章33節―34節)。自分に失望したり、後悔の念にとらわれてみじめな思いになったりしたとき、ヘブル人への手紙4章15節―16節が「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」と勧めているように、みじめな者、罪人を救うために御子イエス様をお遣わしくださった神の愛の中に生かされている事を思い起こし、信仰の創始者であり完成者であり、恵みとまことを実現してくださったイエス様を見上げて生きようではありませんか。