人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かにするものは主である。(箴言16章10節)

1.詩篇1825節―34
2.詩篇3723節―24
3.イザヤ書556節―11

「善悪の知識の木から取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」と仰せられた神の警告に対して、「あなたがたは決して死にません。」と神のことばを完全に否定しただけでなく、それを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになる、と言ったサタンのことばに乗じて食べて罪を犯したことによって、パウロが「だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。(ピリピ人への手紙2章21節)」と語っているように、人は神を無視し、自分勝手な生き方をする者となってしまいました。ダビデも自分のいのちを愛し、自分の考えで生きたときにはさまざまな罪を犯し、問題を抱えましたが、窮地に陥った時、彼は「まことに、主のほかにだれが神であろうか。私たちの髪を除いて、だれが岩であろうか。この神こそ、私に力を帯びさせて私の道を完全にされる。(詩篇18篇31節―32節)」と告白しているように、常に主のもとに立ち返ったのでした。イザヤ書53章4節―6節は「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通されて、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」と、彼、すなわちイエス様は罪や死の解決をもたらし、いやしや平安を与えられただけでなく、主の道を歩むことができるように自分かってな生き方からも贖ってくださったことを語っています。神は御子イエス様をこの世にお遣わしになり、この世や人の知恵では考えられないような救いの道を開かれたのです。パウロが「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピリピ人への手紙4章6節―7節)」と勧めているように心のうちを主に申し上げるとともに、今日の聖句が「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かにするものは主である。(箴言16章10節)」と語っているように、結果は最善をなされるは主の御手の中にあることを認めるなら、私たちの歩みは確かなものとされるのではないでしょうか。