わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がびどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。(ヨハネの福音書15章4節)

1.ピリピ人へ手紙19節―11
2.ヘブル人への手紙122節―11
3.ヤコブの手紙3章13節―18節

イエス様は「にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。(マタイの福音書7章15節―18節)」と、にせ預言者かどうかについて「羊」や「木」をもって説明されるとともに、「実」によって見分けることができることを話されました。「永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」と尋ねた青年に、イエス様は「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのか。良い方は、ひとりだけです。もしいのちに入りたいと思うなら、戒めを守りなさい。」と答えられるとともに幾つかの戒めを話されると、彼はイエス様が指摘された「隣人を自分自身のように愛せよ。」という戒めをも守っていると断言しましたが、イエス様から「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。その上でわたしについて来なさい。」と言われると、彼は財産をたくさん持っていたので悲しんでイエス様のもとから去ったのでした(マタイの福音書19章16節―22節)。彼は「良いこと」と言われましたが、イエス様は良い行いを行うためには「良い方」との関係が必要であること、良い羊飼いであるイエス様とともに歩む必要性があることを語ったのではないでしょうか。聖書は「義の実」「御霊の実」と、イエス様との関係がない限り結ぶことができない実を語っています。キリスト者はイエス様を信じることによって良い木であるイエス様につぎ木され義人とされていること、聖霊によって聖なる者(ローマ人への手紙15章16節)とされていることをわきまえて、さまざまな試練や思い煩い、恐れが臨むとき、罪人を救うために十字架の死にまで従われた主のことを思い起こすとともに(ヘブル人への手紙12章5節)、平安な義の実を、御霊の実を結ぶ成熟したキリスト者となるように、キリストともにすでに古い自分は十字架で死んでいることを思い起こさせてくださる機会ととらえてイエス様が「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がびどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」と仰せられたように、自分に生きるのではなく、キリストに属する者として生きようではありませんか。