昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。(ローマ人への手紙15章4節)

1.ローマ人への手紙415節―55
2.テモテへの手紙 第二 312節―17
3.ヘブル人への手紙312節―42

主に従うことをしなかったために主の霊がサウルを離れ、主からの、わざわいの霊がサウルをおびえさせたのですが(サムエル記 第一 16章14節)、サウルはダビデを非常に愛し、ダビデを自分の道具持ちとされたのでした。「神の霊がサウルに臨むたびに、ダビデは立琴を手に取って、ひき、サウルは元気を回復して、良くなり、わざわいの霊は彼から離れた。」という聖句からダビデとサウルとの関係に問題がなく(サムエル記 第一 16章21節―23節)、やがてサウルはダビデ を戦士たちの長とされたのですが、ペリシテ人との戦いから凱旋したとき、女性たちは主はサウルとダビデ を用いて勝利を与えられた、と言って主をほめたたえたのではなく、「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。と女性たちが笑いながらくり返して歌ったために、サウルは非常に怒り不満に思って「ダビデには万を与え、私には千を当てた。彼にないのは王位だけだ。」と言い、その日以来ダビデ を疑いの目で見るようになり、ダビデを殺害することがサウルの人生の目的のようになってしまったのでした。そのために、ゴリアテとの戦いの時には「私は、おまえがなぶったイスラエルの先陣の神、万軍の主の御名によって、お前に立ち向かうのだ。きょう、主はお前を私の手に渡される。」と言い一つの石でサウルもサウルの軍隊も恐れていたゴリアテを石一つで撃ち倒して勝利をおさめていたにもかかわらず、サウルを恐れ自分の考えで行動し、さまざまな問題を引き起こしたのですが、彼は失敗をするたびに主に立ち返り、主にどうすべきかを尋ねると、主は応答してくださり勝利を与えられた上に、ダビデについて「わたしはエッサイの子ダビデ を見いだした。彼はわたしの心にかなった者で、わたしのこころを余すところなく実行した。(使徒の働き13章22節)」と仰せられたのでした。ですからダビデは「わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。(詩篇103篇1節―2節)」と勧めています。主のこころにかなった者とは罪を犯さず、失敗をしない者ではなく、主を忘れても、主に立ち返る人ではないでしょうか。今日の聖句が「昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。」と語っているように、ヘブル人への手紙11章にはアブラハムやモーセや信仰に生きられた方々の名が書かれていますが、旧約聖書で彼らの人生を見ると何らかの罪を犯していますが、それらの罪や失敗はいっさいふれられていません。イスラエルの民が主をないがしろにしても、主はご自分の民を見捨てることなく、いつもともにおられ導かれる方であることを、神の愛や恵みがどれほど偉大なものであるかを知ることができるのではないでしょうか。エリヤも私たちと同じ、とヤコブは語りました。サウルとダビデ を比較するようなことを言い、主をほめたたえなかった女性たちのようではなく、ダビデのように主をほめたたえて生活しようではありませんか。