義を知る者、心にわたしの教えを持つ民よ。わたしに聞け。人のそしりを恐れるな。彼らのののしりにくじけるな。(イザヤ書51章7節)

1.イザヤ書463節―13
2.マタイの福音書171節➖8
3.ヨハネの福音書16章12節ー14節
4.テモテへの手紙 第二 3章16節ー17節

ピリピ人への手紙3章8節―9節は「義」には、「自分の義」と「神の義」があることを語っています。ところで、神に対して熱心で、神のことばである律法を知っていても神の義を知らず、律法による自分の義に生きていたパリサイ人や律法学者は、イエス様のところに姦淫の現場で捕らえられた女性を連れて来て「モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何といわれますか。(ヨハネの福音書8章5節)」と、イエス様に問い続けてやめなかったのですが、その動機はイエス様を試すためでした。しかし、イエス様はそれでも「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」と答えられたのでした。ローマ人への手紙3章25節―26節が「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。」と語っているように、今日の聖句「義を知る者、心にわたしの教えを持つ民よ。わたしに聞け。人のそしりを恐れるな。彼らのののしりにくじけるな。」は、義を知る者、すなわち神を知っている者、みことばを心に持つ者であるキリスト者が心に留めるべきものではないでしょうか。伝道者の書7章21節が「人の語ることばにいちいち心を留めてはならない。あなたのしもべがあなたをのろうのを聞かないためだ。」と勧めているように、人のことばに一喜一憂するのではなく、「わたしに聞け。」というお勧めに従って、主が喜ばれるかどうかを吟味し、世の光として輝くために、神の御霊によって神のみこころを教えてくださっている「いのちのことば」をしっかり握って(ピリピ人への手紙2章16節)真理の中を歩もうではありませんか。