主よ。まことに、あなたは正しい者を祝福し、大楯で囲むように愛で彼を囲まれます。(詩篇5篇12節)

1.ローマ人への手紙833節―39
2.コリント第二51節―14
3.ガラテヤ人への手紙38節―14

神から知恵の心と判断する心を与えられたソロモンは「私は心の中で、私の心は知恵によって導かれているが、からだはぶどう酒で元気づけようと考えた。人の子が短い一生の間、天の下でする事について、何が良いかを見るまでは、愚かさを身につけていようと考えた。(伝道者の書2章」と、「愚かさ」すなわち、偶像崇拝をしていても創造者である神を考慮しないこの世の人と同じように、「天の下」すなわち、この世のさまざまな分野を探索する中で「私が見いだした次の事だけに目を止めよ。神は人を正しい者に造られたが、人は多くの理屈を探し求めた。(伝道者の書7章29節)」と、語っています。確かに、神は人をご自分のかたち、すなわち正しい者として創造しされたのですが(創世記1章27節)、神の警告よりも悪魔とも呼ばれるサタンの偽りのことばを信じて神が禁じた善悪の知識の木から取って食べてしまい、神である主から「食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」と問われると、アダムもエバも食べたことは認めましたが、神に謝罪せずにアダムはエバに、エバは蛇、すなわちサタンに責任を転嫁したのでした。それ以来、人は罪を犯す性質をもって生まれる者となったのでした。それゆえ、パウロは「すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義とみとめられえるのです。(ローマ人への手紙3章23節)」と、正しい者になるためにはキリストが不可欠であることを語っています。主は、神を信じたアブラハムに「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」と仰せられたように、キリスト者も祝福された者とされているだけでなく、キリスト・イエスにある神の愛から引き離すものはないどころか(ローマ人への手紙8章38節―39節)、今日の聖句が「主よ。まことに、あなたは正しい者を祝福し、大楯で囲むように愛で彼を囲まれます。」と語っているように、神の愛で守られているのです。キリスト者が罪に定められないように今日もとりなして祈っていてくださる主の御手の中に、神の愛の中に生かされていることを感謝して生きようではありませんか。