まことに、主は、ご自分の民を見放さず、ご自分のものである民を、お見捨てになりません。(詩篇94篇14節)
1.ネヘミヤ記9章6節―31節
2.ヨハネの福音書14章1節―18節
3.コリント人への手紙 第二 4章5節―10節
イスラエルの歴史を見ると、エジプトに多くの奇蹟を体験しただけでなく、前方には紅海、後方からはエジプト軍が追って来るという四面楚歌の状態に、主は紅海を分けてくださったので民は対岸に無事着いただけでなく、渡り終えると海水がもとに戻ってエジプト軍はひとり残らず溺死したのを見て、神がどのような方であるかを知っているはずなのに、神の約束を信じないで、約束の地について真実を語らず「私たちが探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。そこで、ネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちは自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」と、悪く言いふらした者のことばを聞いた民はモーセとアロンに「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ。なぜ主は、私たちをこの地に導いて来て、剣で倒そうとされるのか。私たちの妻子は、さらわれてしまうのに。エジプトに帰ったほうが、私たちにとって良くはないか。さあ、私たちは、ひとりのかしらを立ててエジプトに帰ろう。」と言いだし、主を信じ、主が約束された地について真実を語ったヨシュアとカレブを石で打ち殺そうとしたり、欲に支配されると、エジプトでの生活をなつかしんで不平不満をもらし、主をないがしろにするようなことをしても、「荒野で死にたい」と願った民が、彼らの願いどおり荒野で亡くなるまで、四十年間、今日の聖句が「まことに、主は、ご自分の民を見放さず、ご自分のものである民を、お見捨てになりません。」と語っているように、主は常にイスラエルの民とともにおられ、彼らの必要を与え続けたのでした。私たちも感情によって行動しやすいので、イスラエルの民のように主に祈ることをせず、主のみこころを求めることを忘れ、自分の考えや思いで自分勝手に生きてしまうようなことがありますが、主は私たちの弱さをご存知で事前にとりなしていてくださるだけでなく、さまざまなことをもって、主の道に立ち返るように導いてくださるのではないでしょうか。人に捨てられるようなことがあっても、どんな出来事があってもすべては私たちの益となるためであることを(申命記8章11節ー16節)、主は決して見捨てることがないことを心に据えて正しい神概念をもって生きようではありませんか。