外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。(ローマ人への手紙2章28節―29節)

1.使徒の働き151節―11
2.ガラテヤ人への手紙36節ー14
3.ガラテヤ人への手紙612節―15
4.コロサイ人への手紙2章8節―11節

イエス様はユダヤ人の指導者であったニコデモに「まことに、まことに、あなたに告げます。水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはいけません。(ヨハネの福音書3章5節―7節)」と、ユダヤ人でありながら、御霊によって生まれ変わる必要性を話されたのでした。パウロはイエス・キリストを信じる前の状態について「あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。(エペソ人への手紙2章11節―12節)」と、割礼があるかないかによって、人の評価がされてしまう時代がありましたが、今日の聖句は「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」と、先祖代々ユダヤ人かどうかとか、伝統に則って割礼を受けているかどうかよりも心の状態が大切であることを語っています。イエス様は「真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。獅子はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。(ヨハネの福音書4章23節―234節)」と礼拝の本質を語ったのでした。ですから、御霊によって生まれ変わったキリスト者は神の子とされているだけでなく、十字架の血によって邪悪な良心がきよめられている、すなわち心の割礼を受けているのですから、日曜日だけでなく、日々、信仰の完成者であり、信仰がなくならないようにとりなしていてくださる主を仰ぎ見て、主が喜ぶ真の礼拝者として生きようではありませんか。