私はまた、あらゆる労苦とあらゆる仕事の成功を見た。それは人間同士のねたみにすぎない。これもまた、むなしく、風を追うようなものだ。(伝道者の書4章4節)

1.ローマ人への手紙13章11節ー14節
2.コリント人への手紙 第一 31節―7
3.ピリピ人への手紙112節―21

今日の聖句「私はまた、あらゆる労苦とあらゆる仕事の成功を見た。それは人間同士のねたみにすぎない。これもまた、むなしく、風を追うようなものだ。」は、非常に厳しいことばですが、神から知恵の心と判断する心を与えられたソロモンが「日の下」すなわち、この世を探索した結果だされた結論であり、よく考えてみますと、「私は・・・をねたんでいます」と言わなくても、「悔しい」ということばや思いには、ねたましく思う心があるのではないでしょうか。サウル王は神との関係には問題を抱えていましたが、ダビデを非常に愛し、エッサイのところに人をやり「どうか、ダビデを私に仕えさせてください。私の気に入ったから」と言い、道具持ちにしましたが(サムエル記 第一 16章21節―22節)、サウルのところへ行ったり、帰ったりしていたのでした(サムエル記 第一17章15節)。ゴリアテに勝利したことを知ったサウルはダビデを召し抱えて家に帰らせず、戦士たちの長としたのでした。ダビデがペリシテ人を打って帰ってきたとき、女たちはイスラエルのすべての町々から出て来て、タンバリン、喜びの歌、三弦の琴をもって、歌い、喜び踊りながら、サウル王を迎えたのですが、女たちは笑いながら、くりかえして「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。」と歌ったことばを聞いて、非常に怒り、不満に思って「ダビデには万を当て、私には千を当てた。彼にないのは王位だけだ。」と、言い、その日以来、サウルはダビデを疑いの目で見るようになり、ダビデを滅ぼすことが彼の人生の目的となりダビデとの関係に支障が起きたのでした(サムエル記 第一 18章5節―9節)。「ねたみ」は肉の行いですから(ガラテヤ人への手紙5章21節)、女性たちが「神はサウル王とダビデを用いて大勝利を与えてくださった。主をほめたたえます。」と、サウルとダビデを比較するようなことをせず、主をほめたたえていたなら、サウロはダビデをねたむ必要がなかったのではないかな、と思わされました。世の人々は他者と比較しながら生きてしまいがちなのではないでしょうか。「比較」のあるところには「ねたみ」も起こりやすいのではないでしょうか。パウロはコリントの教会の聖徒たちのことを神に感謝しましたが、聖徒たちの間にねたみや争いがあることを指摘するとともにその要因を「『私はパウロにつく』と言えば、別の人は、『私はアポロに』と言う、そういうことでは、あなたがたは、ただの人たちではありませんか。」と語ったのでした。キリスト者は罪や死からだけでなく、世から贖い出されていることを、能力も功績も主が与えてくださっていることを、聖霊によって人をねたまない神の愛が与えられていることを(ローマとへの手紙5章5節)心に留め、他者と比較するような生き方はせず、主をほめたたえて生きようではありませんか。