義のいけにえをささげ、主に拠り頼め。(詩篇45節)

1.マタイの福音書517節―20
2.ヨハネの福音書539節―44
3.使徒の働き26章2節ー18節
4.ピリピ人への手紙32節―15

神がアダムに「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ(創世記2章16節)」と命じられた善悪の知識の木から取って食べても「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。(創世記3章4節―5節)」という蛇に化身した悪魔のいつわりのことばに誘発されてエバは食べてから、エバがアダムに渡したので、二人とも善悪の知識の木から取って食べたことによって、自分たちが裸であるのを知り、自分たちの考えでいちじくの葉をつづり合わせて自分たちの腰のおおいを作り、神である主の声を聞くと、主の御顔を避けて園の木の間に身を隠したのですが、主から「あなたは、どこにいるのか」と問われたので、アダムが「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」と答えると、主は「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」と仰せられたので、アダムは食べたことを認めましたが、主に謝罪せず「あなたがわたしのそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」と、主とエバのせいにし、エバも謝罪せずに蛇、すなわち悪魔のせいにして、二人とも他者に責任を転嫁し「自分が悪いのではない」と、すなわち自分の義を主張したように、人は、自分の考えや自分の思いに支配されて自分の義に生き、自分たちの考えで神さえも考案してさまざまな宗教を確立し、神は御子イエス様を人としてこの世にお遣わしになったので、創造者なる神であるイエス・キリストをキリスト教の教祖のように考えているのではないでしょうか。この世は、自分の考えをしっかり持って生きることが賢いように思っていますが、神から知恵の心と判断する心を与えられたソロモンは「あなたは正しすぎてはならない。知恵がありすぎてはならない。なぜあなたは自分を滅ぼそうとするのか。(口語訳:あなたは義に過ぎてはならない。また賢きに過ぎてはならない。あなたはどうして自分を滅ぼしてよかろうか。 )(伝道者の書7章16節)」と、自分の義や自分の考えで生きないように警告しています。キリスト者でも自分の考えや自分の思いに支配されて、自分の義に生きてしまうと、人間関係がうまくいかなかったり、さまざまな問題で悩んだりするようなことがありますが、そのような時、今日の聖句「義のいけにえをささげ、主に拠り頼め。」を思い起こし、義なるお方は神であり、神はすべてをご存知であることを、神はひとりひとりにご計画をお持ちであることを思い起こして、自分の義をささげる、すなわち自分の考えに固執せず、十字架に架けられた主を仰ぎ見て、人間の考えである哲学や宗教では解決できない罪や死から救い出してくださった主を信頼して生きようではありませんか。