ソロモンはイスラエルの全集団の前で、主の祭壇に立ち、両手を天に差し伸べて言った。「イスラエルの神、主。上は天、下は地にも、あなたのような神はほかにありません。あなたは、心を尽くして御前に歩むあなたのしもべたちに対し、契約と愛とを守られる方です。」(列王記 第一 8章23節)

1.申命記425節―40
2.ヨシュア記21節―21
3.エレミヤ書2323節―24
4.ピリピ人への手紙2章6節ー11節

イスラエルの民は神である主が紅海の水を二手に分けられ全員無事に対岸に渡り、彼らが渡り終えると主は水をもとに戻してエジプト軍全員を溺死させて民をエジプトの手から救われるという奇蹟を体験したにも関わらず、モーセがシナイ山から降りてくるのに手間取っていたために民がアロンに「さあ、私たちに先立って行く神を、造ってください。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから。」と言うと、アロンは「あなたがたの妻や、息子、娘たちの耳にある金の耳輪をはずして、私のところに持って来なさい。」と言い、金の耳輪で金の子牛を造り「イスラエルよ。これがあなたをエジオプトの地から連れ上ったあなたの神だ。」と言い、その前に祭壇を築き「あすは主への祭りである。」などと言って偶像崇拝をしたのでした。確かに、金の子牛の材料になった金の耳輪は民の耳につけられエジプトから出て来ましたが民を導いたのは主であることを忘れたのです。詩篇115篇2節―13節は「なぜ、国々は言うのか。『彼らの神は、いったいどこにいるのか』と。私たちの神は天におられ、その望むところをことごとく行われる。彼らの偶像は銀や金で、人の手のわざである。口があっても語れず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。手があってもさわれず、足があっても声をたてることもできない。これを造る者も、これに信頼する者もみな、これと同じである。イスラエルよ。主に信頼せよ。この方こそ、彼らの助け、また盾である。アロンの家よ。主に信頼せよ。この方こそ、彼らの助け、また盾である。主を恐れる者たちよ。主に信頼せよ。この方こそ、彼らの助け、また盾である。主はわれらを御心に留められた。主は祝福してくださる。小さな者も、大いなる者も。」と語っています。モーセが預言されたように、民は何度も背教を繰り返して、偶像崇拝をしましたが、主はダビデに子孫が罪を犯したなら、人の杖、人の子のむちをもってこらしめるけれども「わたしは、あなたの前からサウルを取り除いて、わたしの恵み(英訳は“愛”)をそのように、彼から取り去ることはない。」と、民が主を捨てても、民を捨てることはなさらず132年にエルサレムが陥落しユダヤ人はさまざまな国に離散し国を失いましたが、驚くべきことに1948年に国を回復したのでした。神から知恵の心と判断をする心を与えられたソロモンはイスラエルの全集団の前で、主の祭壇に立ち、両手を天に差し伸べて「イスラエルの神、主。上は天、下は地にも、あなたのような神はほかにありません。あなたは、心を尽くして御前に歩むあなたのしもべたちに対し、契約と愛とを守られる方です。」と言いましたが、そのことを証明されたのです。ヘブル人への手紙10章36節「あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」を心に据えて、正しい神概念をもって主の時を待ち望み(伝道者の書3章11節)、人々が偶像崇拝から神に立ち返ることができるように、救われるようにとりなして祈り、主を信頼して生きようではありませんか。