キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。(ガラテヤ人への手紙3章13節)
1.申命記21章22節ー23節
2.ローマ人への手紙4章6節―16節
3.ローマ人への手紙10章1節―13節
4.ヨハネの手紙 第一3章4節-5節
偽りをもってエバが罪を犯すように誘惑した蛇、すなわち悪魔(サタン)を神はのろいましたが、人をのろうことはせず、かえって皮の衣を作って着せてくださったのですが、神が「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」と仰せられたように、人類に死が入ったのでした。やがて主はイスラエルの民をご自分の民として選ばれモーセに律法を与え、人が生きるべき道を示されるとともに、主は「見よ。私は、きょう、あなたがたの前に、祝福とのろいを置く。もし、私が、きょう、あなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令に聞き従うなら、祝福を、もし、あなたがたの神、主の命令に聞き従わず、私が、きょう、あなたがたに命じる道から離れ、あなたがたの知らなかったほかの神々に従って行くなら、のろいを与える。あなたが、入って行って、所有しようとしている地に、あなたの神、主があなたを導き入れたなら、あなたはゲリジム山には祝福を、エバル山にはのろいを置かなければならない。(申命記11章26節―29節)」と、律法を守るかどうかが大きな違いをもたらすことを語っています。ところで、ヤコブの手紙2章10節が「律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。」と、ヤコブの手紙3章2節が「私たちはみな、多くの点で失敗をする者です。もし、ことばで失敗しない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。」と語っているように、人は律法を完全に守ることはできないことがわかります。ということは、すべての人はのろいの下に置かれているわけですが、今日の聖句が「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである』と書いてあるからです。」と語っているように、キリスト者は決して罪に定められないだけでなく(ローマ人への手紙8章1節)、のろいからも完全に解放されていることを感謝し、ヨハネの福音書1章16節―17節「私たちは、みなこの方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」のみことばを心に留め十字架によって実現された恵みの中に生き続けようではありませんか。