「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。(テモテへの手紙 第一1章15節)

1.マルコの福音書214節―17
2.ルカの福音書527節―32
3.ローマ人への手紙319節―26

イエス様が「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われると、シモン・ペテロは「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」と言って、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網が破れそうになったので、別の舟にいた仲間の者たちに合図をして助けに来てくれるように頼んだのでした。仲間の舟が来てから魚を上げたのですが、両方の舟いっぱいになり、二そうとも沈みにそうになるほどだったのを見たペテロはイエス様の足もとにひれ伏して「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」と申し上げると、イエス様が「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」と仰せられたので、そこにいたヤコブとヨハネもペテロとともにイエス様に従い(ルカの福音書4章4節―11節)、やがて主が仰せられたように福音宣教に遣わされる使徒となったのでした。パウロは律法による自分の義に生きていた時には罪がわからず、教会を迫害していたのですが、キリスト者になったパウロは罪に支配されている自分を知り、自分がいかにみじめなものであるかを思い知らされるとともにキリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してない(ローマ人への手紙7章20節―8章1節)という真理を宣言し、「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」と、イエス様がなぜ人として御降誕くださったかを語るとともに、教会を迫害していたので「罪人のかしら」と言われたのでした。パウロのように、いかに自分が「みじめな者」であるかを思い知らされる時こそ、今日の聖句「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」を思い起こし、救われていることを感謝して生きようではありませんか。