主よ、私の力、私のとりで、苦難の日の私の逃げ場よ。あなたのもとに、諸国の民は地の果てから来て言うでしょう。「私たちの先祖が受け継いだものは、ただ偽るもの、何の役にも立たないむなしいものばかりだった。人間は、自分のために神々を造れようか。そんなものは神ではない」と。(エレミヤ書16章19節ー20節)
1.イザヤ書44章6節ー20節
2.コリント人への手紙第一10章1節ー14節
3.エペソ人への手紙4章17節ー24節
4.ペテロの手紙第一1章18節ー21節
桜の季節であるためか、テレビで盛んに神社やお寺が紹介され、偶像を拝むことが敬虔なこととして紹介されているのは、ヨハネの福音書1章18節が「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」と語っているように、神は目に見えないため、パウロが「彼らは知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。(ローマ人への手紙1章22節ー23節)」と語っているように、多くの奇蹟を体験したイスラエルの民でさえモーセがシナイ山から降りてくるのに手間取っているの見た民はアロンに「さあ、私たちに先立って行く神を、造ってください。私たちをエジプトから連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから。」と言うと、アロンは、神がどのような方なのかを思い起こさせるよりも、モーセが降りてくるのを待つように民を説得するよりも、金のイヤリングを持ってくるように言い、それから金の子牛を作って「イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ。」と言って祭壇を築き「あすは主への祭りである。」などと言って、偶像崇拝をして罪を犯してしまったように(出エジプト記32章1節ー6節)、ヒゼキヤが壊すまでの約700年間、民は青銅の蛇をいやしの象徴として持っていたのでした(列王記第二18章4節)。エレミヤは「主よ、私の力、私のとりで、苦難の日の私の逃げ場よ。あなたのもとに、諸国の民は地の果てから来て言うでしょう。『私たちの先祖が受け継いだものは、ただ偽るもの、何の役にも立たないむなしいものばかりだった。人間は、自分のために神々を造れようか。そんなものは神ではない』」と、パウロも「イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめて、すべての口が、『イエス・キリストは主である』と告白し、父なる神がほめたたえるときが来ることを語っています。今は恵みの時、救いの日です(コリント人への手紙第二6章2節)。不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているこの世の神から人々が解放されるように祈ろうではありませんか。
