ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くし堅く、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。(ローマ人への手紙11章33節)

1.イザヤ書55章6節ー13節
2.伝道者の書3章1節ー11節
3.使徒の働き26章2節ー23節
4.ペテロの手紙第二1章16節ー21節及び3章15節ー18節

道を行く人々から「おお、神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」とののしられても、「他人を救ったが、自分は救えない。キリスト、イスラエルの王さま。今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから。」と、祭司長たちや律法学者たちからだけでなく、イエス様といっしょに十字架につけられた者たちからもののしられても(マルコの福音書15章27節ー32節)、イエス様が「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」ととりなされたにもかかわらず、民衆も、指導者たちも、兵士たちもあざけり、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と悪口を言った十字架にかけられた犯罪人のひとりに、もうひとりの犯罪人が「お前は神を恐れないのか。お前も同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たりまえだ。だが、この方は、悪いことは何もしなかったのだ。」とたしなめられたように、ピラトが「私は、あの人に罪を認めません。(ヨハネの福音書18章38節)」と言ったにもかかわらず、人殺しバラバの代わりに十字架の刑に服され殺されましたが、そこには神の大いなるご計画があったのでした。死があってこその復活だからでした。女性たちはイエス様がよみがえられたことを使徒たちに話しましたが、パウロが「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くし堅く、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。」と語っているように信用しなかったのでした。その日に起こったことを話し合ったり論じたりしていたエマオに向かっていた二人の弟子たちにイエス様はご自身を現わされ、聖書全体の中でご自分について書いてあることを説き明かされてから、パンを取って祝福し、裂いて彼らに渡されると彼らの目が開かれ、一緒にいる方がイエス様だと分かったことで十分だったのでしょう。イエス様は、彼らには見えなくなったのでした。わからないことがあっても主がわからせてくださることを、主の時があることを心に据えて、ペテロが忠告しておられるように、無理な解釈をしないようにしようではありませんか(ペテロの手紙第二1章20節及び3章15節ー17節)。