終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。(エペソ人への手紙6章11節ー12節)

1.マルコの福音書16章15節ー20節
2.使徒の働き26章2節ー23節
3.エペソ人への手紙2章1節ー9節
4.テモテへの手紙第一2章1節ー7節

パウロはアテネの町が偶像でいっぱいなのを見て、会堂ではユダヤ人や神を敬う人たちと、広場では毎日そこに居合わせた人たちや哲学者たちと論じ合っただけでなく、やがてアレオパゴスの議会でも弁明する機会が与えられたので、偶像と神との違いを語るとともに復活について語ると、信じた人とあざ笑った人や「このことについては、またいつか聞くことにしよう」と言って信じない人がいたのでしたが、それは今も同じではないでしょうか。ところで、そのことに関してパウロは「私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々の場合に、おおいがかかっているのです。その場合、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。(コリント人への手紙第二4章3節ー4節)」と語っています。パウロの「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」を心に据えて、人を敵対関係に置こうとするようなこの世の神である悪魔の策略に陥らないようにするだけでなく、世の人々がこの世の神、すなわち悪魔(サタン)の支配から解放されるように、心の目が開かれるようにとりなして祈ろうではありませんか。