主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。(ヨハネの福音書4章3節ー4節)

1.マタイの福音書26章36節ー46節
2.ヨハネの福音書12章23節ー24節及び27節
3.ヨハネの福音書21章18節ー19節
4.ヘブル人への手紙4章14節ー16節

今日の聖句は「主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。」と語っていますが、それは、サマリヤの女性やサマリヤの人々がイエス様のことばを聞いてイエス様が本当に世の救い主であることを信じるためであったのでした(今日の聖句の後の5節―42節)。イエス様はご自身を一粒の麦にたとえられてから「今、わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。父よ。御名の栄光を現してください。」と申し上げると、「わたしは栄光をすでに現したし、またもう一度栄光を現そう。」と天からの声がしたのでした。ゲッセマネの園でも「できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」と祈られましたが同時に「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのままに、なさってください。(マタイの福音書26章39節)」と、祈られたのでした。主は剣をもって主を守ろうとしたペテロに「こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。(マタイの福音書」と仰せられたように十字架の死を受け入れたのでした。主は人類の救いの道を開くために、ご自身はかかりたくなかった十字架の刑を受けたのでした。神は約束の地にイスラエルの民を導くにあたって、「民が戦いを見て、心が変わり、エジプトに引き返すといけない。」と言われ、近道であるペリシテ人の国の道には導かれず、昼は雲の柱、夜は火の柱を持って荒野を導かれたのでした(出エジプト記13章17節―22節)。主は私たちのことを私たち以上によくご存知で、私たちにとっては無理と思われるような出来事でも「神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。(コリント人への手紙第一10章13節)」を心に据えて、神にご計画があることを、行くべき道であることを認め、すべてを益としてくださる主を信頼して生きようではありませんか。