心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。(箴言3章5節)
1.詩篇119篇1節―2節
2.イザヤ書55章6節―13節
3.ヨハネの福音書21章15節ー19節
4.ピリピ人への手紙4章6節―7節
人はとかく自分のことは自分が一番よく知っていると思っているだけでなく、自分の考えや経験、世の通説、または慣習や伝統に則ってさまざまなことを判断したり決断したりするのではないでしょうか。パリサイ人として生きていた時のパウロは神に対して熱心でしたが、キリスト者を迫害している祭司長やユダヤ人の長老や学者たちと同じようにイエスの名に強硬に敵対すべき、と考えてキリスト者を迫害していたのでした。水に渇きを覚えた民に水を与えるために、主は一度目はモーセに杖で岩を打つように仰せられましたが(出エジプト記17章6節)、二度目には岩に命じるように仰せられたのですが、彼は一度目と同じように杖で二度岩を打ってしまったので、水は出ましたが、モーセは約束の地を見ることはできても入ることができない、と言われてしまいましたが、イエス様が栄光の姿に変えらた時、エリヤとモーセがイエス様と語り合っていることやヘブル人への手紙11章に名を連ねていることから、それはあくまでもイスラエルの地ということであることを心に留めて、いつもみことばどおりに生きられないことを悩んで、救われているかどうか不安になる必要はありませんが、経験主義の危険性を教えられます。ダビデについて、使徒の働き13章22節には「わたしはエッサイの子ダビデを見いだした。彼はわたしの心にかなった者で、わたしの心を余すところなく実行する」とありますが、彼は主の偉大さを忘れ、自分の考えや情欲に支配されて行動した時、すなわち自分を愛したときにさまざまな罪を犯しましたが、窮地に陥ると主に立ち返り、主に拠り頼んで、主の仰せられるように行動して勝利を見たのでした。今日の聖句「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。」を心に据えて、私たち自身以上に私たちのことをよくご存知なだけでなく、将来についてもご存知な主であり、ダビデのようにどんな出来事も、私たちの失敗さえも益としてくださる主に拠り頼む、すなわち主を信頼して生活しようではありませんか。