信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。(ヘブル人への手紙11章1節)
1.箴言19章21節
2.イザヤ書46章5節―11節
3.ルカの福音書23章39節ー43節
4.ヘブル人への手紙11章2節―6節
主は「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる所に、彼らを上らせためだ。見よ。今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た。今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ」とモーセに使命を与えられました。主が与えようとされているエモリ人の山地に来た時、モーセが「見よ。あなたの神、主は、この地をあなたの手に渡されている。上れ。占領せよ。あなたの父祖の神、主があなたに告げられたとおりに、恐れてはならない。おののいてはならない。」と言ったにも関わらず、「私たちより先に人を遣わし、私たちのために、その地を探らせよう。私たちの上って行く道や、入って行く町々について、報告を持ち帰らせよう」と言った民の意見をモーセは良いと思ったのでした(申命記1章20節―22節)。そこで、主は部族ごとにその族長を遣わすように命じられたので族長12人が遣わされました。彼らは探って来た地について主が事前にモーセに語った通りの状況を報告したとき、カレブが「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」と、ヨシュアも「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。もし、私たちが神の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちにくださるだろう。あの地には乳と蜜が流れている。ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちにえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」と説得しましたが、民は「私たちが行き巡って来た地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。そこで、私たちはネフリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らもそう見えたことだろう。」と悪く言いふらした者たちのことばを信じて「エジプトの地で死んでいたらよかったのに、できれば、この荒野で死んだほうがましだ。」などと言い、数々の奇蹟を体験し、主がどのような方か知っていたはずなのに主を信頼しなかったのでした。悪く言いふらした者たちはネフイリム人と自分たちを比較しましたが、ヨシュアとカレブは目には見えませんがネフィルム人と神を比較し信仰に立つことができたのでした(民数記13章1節ー14章9節)。今日の聖句「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」というみことばに生きる秘訣は、ペテロの手紙 第一1章21節が「あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。」と、ヘブル人への手紙12章2節が「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」と勧めているように、ヨシュアとカレブのように神が、イエス様がどのような方であるかを見ることにあるのではないでしょうか。