聖書箇所
互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。(コロサイ人への手紙3章13節)
<関連聖句>
1.マタイの福音書18章18節―35節
2.ルカの福音書6章32節―38節
3.コリント人への手紙 第二2章4節―11節
4.エペソ人への手紙4章26節―32節
<メッセージ>
ヨハネの手紙 第一4章9節―11節は「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」神の愛について語るとともにキリスト者が互いに愛し合うことを勧めていますが、その愛は生れながら持ち合わせている人間の愛ではなく、アガペ、すなわち「神の愛」で愛し合うように勧めているのです。イエス様が十字架につけられたとき「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と、とりなして祈られたように、「赦し」ではないでしょうか。イエス様は「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」尋ねたペテロに「七度まで、などどはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。」と仰せられてから、たとえ話をもって、一万タラントの借金を赦されたにもかかわらず、彼に100デナリを借金している仲間のしもべに出会うと、その人の首を絞めて「借金を返せ」と言ったので、仲間のしもべが「もう少し待ってくれ。そうしたら返すから。」と頼んだにも関わらず、借金を返すまで牢に投げ入れてしまったことを知った王は、怒って、一万タラントの借金を赦してあげたしもべが借金全部を返すまで獄吏に引き渡されることになる、と「赦す」ことの大切さを語ったのでした。一万タラント赦されているにも関わらず、恵みがわからず、赦されていることがわからなかったのでしょう。私たちはみな一万タラント、すなわち一万タラントは6千万デナリで、1日の賃金が1デナリなので6千万デナリ➗365(一年分)=約164384年分、すなわち全生涯の罪を主が赦してくださったことを心に留め、今日の聖句が「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」と、勧めているように互いに赦し合うなら、主が、ヨハネの手紙が勧めているように神の愛で愛し合って生きていることになるのではないでしょうか。「赦せない」と思う時、一万タラント赦されていることを思い起こそうではありませんか。