このところ親がしつけと称して自分の子供を虐待しているニュースが何件も報道され心が痛みますが、今日の聖句は「肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちを自分の聖さにあずらからせようとして懲らしめるのです。」と、肉の父と霊の父、すなわち神の懲らしめの動機と目的の違いを語っています。
今日の聖句の前節ヘブル人への手紙12章5節―6節は「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」と、神とキリスト者の関係は愛による親子関係であることを語っていますが、そこで使われている「愛」は「アガパオ」、すなわち神の愛であり、その愛についてコリント人への手紙 第一 13章4節―8節は「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。」と、説明し、その神の愛は罪人を救うためにいのちを捧げられた十字架のイエス様に見られることをヨハネの手紙 第一 4章9節は語っています。
興味深いことにダビデは神殿を建てたかったのですが、主はダビデではなく息子のソロモンがすること、そして「わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。もし彼が罪を犯すときは、わたしは人の杖、人のむちをもって彼を懲らしめる。しかし、わたしは、あなたの前からサウルを取り除いて、わたしの恵み(英訳:愛と訳しています。両方の意味を持つヘブル語です)をサウルから取り去ったが、わたしの恵み(愛)をそのように取り去ることはない。(サムエル記 第二 7章14節)」と親子関係を語るだけでなく、懲らしめることをも語ったのですが、それは神のご性質にあずかる者(ペテロの手紙 第二 1章4節)となるため、すなわち主が「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。(レビ記19章2節)」と仰せられたように、今日の聖句は主と同じ聖さにあずからせるためであることを語っています。
私たちは多くの失敗をする者ですが、「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。・・・・・私はこう確信しています。死も、いのちも、御使も、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(ローマ人への手紙8章33節―34節及び38節―39節)」と、自分の思いや感情に欺かれないように(エペソ人への手紙4章22節)主のみことばを信じ、ダビデに主が語られたことを実体験しているパウロと同じ確信をもって主に愛されていることを感謝して生きようではありませんか。