私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物として御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(ヨハネの手紙第一4章10節)

1.ルカの福音書23章13節ー43節
2.ヨハネの福音書3章16節ー17節
3.ローマ人への手紙8章27節ー39節
4.エペソ人への手紙2章1節~10節

パウロは「私たちも生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪禍の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かしーあなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。ーキリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜る慈愛によって明らかにお示しになるためでした。あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ人への手紙2章3節ー9節)」と、また「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をいはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。なぜなら、福音のうちには神の儀が啓示されていて、その義は信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。というのは不義を持って真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りか天から啓示されているからです。それゆえ、神について知られることは、彼らに明らかです。それは神が明らかにされたのです。(ローマ人への手紙1章16節ー19節)」と、神はあわれみ深い方であるだけでなく、愛であるとともに聖なる方であり、正義でもあるので、罪をや不義に対して怒りを発する方であることを語っています。ですからヨハネは「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物として御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」と、イエス様を「なだめの供え物」と称されているのは、罪や死だけでなく、神の怒りから救いわれるためにイエス様を人としてこの世にお遣わしになり、本来、私たちが受けるべき罰を、私たちの身代わりに受けてくださったからではないでしょうか。イエス・キリストを信じた者、キリスト者は罪や死だけでなく、神の怒りからも救われ、死後、神にさばかれることなく、永遠のいのちが与えられていることを忘れないようにしようではありませんか。