わが子よ。あなたの心をわたしに向けよ。あなたの目は、わたしの道を見守れ。(箴言23章26節)
1.創世記29章31節ー35節
2.マタイの福音書14章1節ー6節
3. コリント人への手紙第二4章15節ー18節
4.ヘブル人への手紙12章2節ー11節
主はヤコブがレアよりもラケルを愛し、レアがきらわれているのをご覧になってレアの胎を開かれたので、レアはみごもって男の子を産み「主が私の悩みをご覧になった。今こそ夫は私を愛するであろう。」と言ってルベン、すなわち「子を見よ」と名づけ、次に男の子を産んだとき「主は私がきらわれているのを聞かれて、この子どもを私に授けてくださった。」と言ってシメオン、すなわち「聞く」と名づけ、3度目に男の子を産んだ時には「今度こそ、夫は私に結びつくだろう。私が彼に三人の子を産んだのだから」と言ってレビ、すなわち「結ぶ」と名づけましたが、四人目の時「今度は主をほめたたえよう」と言ってユダ、すなわち「賛美」と名づけたのでした。彼女は「主が私の悩みをご覧になった。」「主は私がきらわれているのを聞かれた。」と言いましたが、3度目には「主」ということばを口にせず、「今度こそ、夫は私に結びつくだろう。」ということばに、主と口で言っても、心はヤコブの愛を求めていたことがわかりますが、「今度は主をほめたたえよう」と、彼女はヤコブよりも子を与えてくださった主に心を向けたのでユダ、すなわち「賛美」と名づけたのでしたのではないでしょうか(創世記29章31節ー35節)。イエス様は「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。(ヨハネの福音書14章6節)」と、ヘブル人への手紙12章2節は「信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」と勧めています。主は「わが子よ。あなたの心をわたしに向けよ。あなたの目は、わたしの道を見守れ。」と、私たちの心を、目をどこに向けるべきかを命じておられます。ヤコブの愛を求めていた時のレアのように、パリサイ人や律法学者のように口では主よ、主よ。と言いながら心は遠く離れてしまっていることが、信仰の完成者であるイエス様から目を離して自分や他者に、この世に向いてしまうようなことが、あるのではないでしょか。そのような時、思いがけないことが起こって悩んだり、レアのように自分の願っていたことがかなえられないような時こそ、レアのように、主に立ち返る時を主が備えてくださったのだと思って主をほめたたえようではありませんか。