神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今のよばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。(エペソ人への手紙1章20節ー21節)

1.ルカの福音書10章17節ー19節
2.マルコの福音書16章15節ー19節
3.使徒の働き4章5節ー12節
4.ピリピ人への手紙2章6節ー11節

ゴリアテの「きょうこそ、イスラエルの陣をなぶってやる。ひとりよこせ。ひとつ勝負しよう。」ということばを聞いたとき、サウルとイスラエルのすベては意気消沈し、非常に恐れたのですが、ダビデは主の御名にどれほどの力があるのかをご存知だったのでしょう。ダビデは「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの先陣の神、万軍の主の御名によって、お前に立ち向かうのだ。きょう、主はおまえを私の手に渡される。」と宣言されたように、ダビデの手には一振りの剣もなかったが、石投げとひとつの石でゴリアテを打ち殺してしまったのでした(サムエル記第一17章45節ー50節)。主に遣わされた七十人の弟子たちが「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。(ルカの福音書10章17節)」と喜んで報告されたように、主の御名には力が伴うことがわかります。興味深いことに、パリサイ人であった時のパウロは祭司長たちやユダヤ人の指導者たちと同じようにナザレ人イエスの名に強硬に敵対すべきと考えてキリスト者を迫害していましたが、キリスト者を迫害するために向かっていたダマスコの途上でイエス様から声をかけられ、キリスト者となり聖霊に満たされたパウロは「神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今のよばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。」と主の御名の威力を知る者となられたのでした。復活の主にお会いし、聖霊に満たされたペテロは主の名の威力を知る者となられ生まれながら足のなえた人に「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって歩きなさい。」と言って、彼の右手を取って立たせるとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだしたのでした(使徒の働き3章1節ー8節)。私たちは主イエス・キリストの御名によって祈っていますが、ダビデやパウロ、ペテロのように、主の御名の持つ権威や威力がどれほどのものであるのかをあまり考慮して祈っていないかもしれません。祈る時、まず心を静めてイエス様の御名がどれほど力と権威があり、大切なものであるかを思い起こしてから祈るように心がけようではありませんか。