割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。どうかこの基準に従って歩む人々、すなわち神のイスラエルの上に、平和とあわれみがありますように。(ガラテヤ人への手紙6章15節ー16節)
1.使徒の働き15章1節ー29節
2.ローマ人への手紙2章17節ー29節
3.エペソ人への手紙2章1節ー10節
4.コロサイ人への手紙2章1節ー14節
主はアブラムが九十九歳になったとき「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」と、また名前をアブラハムに変えるように仰せられてから、割礼は主との契約を示すもとして行うように主は仰られましたが、その前提として「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」と仰せられたのでした。ところでヘブル人への手紙10章1節に「律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は年ごとに絶えずささげられる同じいけにえよって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。」と、語っていますが、14節において「キリストは聖なる者とされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。」と語っています。パウロは八日目の割礼を受けていましたが、「どうか犬に気をつけてください。悪い働き人に気をつけてください。肉体だけの割礼の者に気をつけてください。神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。(ピリピ人への手紙3章2節ー3節)」と語るとともに「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。」と、大切なのはキリストにあって、聖霊による新生であることを語るとともに「どうかこの基準に従って歩む人々、すなわち神のイスラエルの上に、平和とあわれみがありますように。」と、神のイスラエル、すなわちキリストを信じることによって神の民とされたキリスト者のために祈っておられます。神との平和をもたらしてくださった恵みとまことに満ちておられるキリストにある者として生きるようにしようではありませんか(ローマ人への手紙5章1節)。