神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない(伝道者の書3章11節)

1.詩篇27篇7節ー14節
2. 詩篇42篇1節ー11節
3.イザヤ書46章3節ー47節
4.哀歌3章25節ー41節

イエス様はラザロが病気にかかっているのを聞かれても、すぐにラザロの家に向かわず、おられたところに二日とどまられただけでなく弟子たちに「もう一度ユダヤに行こう」と仰せられラザロの家に着いた時にはすでにラザロは墓におさめられ四日もたっていたので、マルタもマリアも残念がったのですが、イエス様の意図は病いを癒すのではなく死からよみがえらせて神の栄光を現すことでした(ヨハネの福音書11章1節ー44節)。ヨブもサタンの試みに会っただけでなく、三人の友からも非難され苦悩されましたが「今でも天には、私の証人がおられます。私を保証してくださる方は高い所におられます。私の友は私をあざけります。しかし、私の目は神に向かって涙を流します。その方が、人のために神にとりなしをしてくださいますように。人の子がその友のために。(ヨブ記16章19節ー21節)」と語っていますが、38章に至るまで神は沈黙されたのですが、ヨブが「私はあなたのうわさを耳で聞いていましたが。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています。」と告白すると、主が三人の友のためにとりなすように仰せられたのでヨブが祈ると癒されただけでなく二倍の祝福が与えられたのでした。私たちは時として主は私たちの願いや祈りをお聞きくださっていないのではないか、と自分を責めたり不信感を抱いたしますが、そのような時、今日の聖句「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない」を思い起こし、私たちにはわからなくても主のご計画があることを忘れずに、主の時を待ち望むようにしようではありませんか。