義を知る者、心にわたしのおしえを持つ民よ。わたしに聞け。人のそしりを恐れるな。(イザヤ書517節)

1.イザヤ書43章1節ー7
2.ルカの福音書189節ー14
3. ルカの福音書2333節ー43
4.コリント人への手紙第一318節ー45

パウロは、律法による自分の義とキリストを信じる信仰に基づいて神から与えられる義ついて語っていますが、イエス様が自分を義人だと自任し、他の人々を見下しいる者たちに対して神が義と認められたのは「この取税人のようでないことを、神に感謝します。」と自分を誇るような祈りを捧げたパリサイ人ではなく、目を天に向けようともせず自分の胸をたたいて「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」と祈られた取税人であることを話されたように、主が「義を知る者、心にわたしのおしえを持つ民よ。」とキリスト者、神の民に呼びかけてから「わたしに聞け。人のそしりを恐れるな。」と語っています。イエス様はむち打たれ、いばらの冠をかぶらされただけでなく、つばをかけられたり、なぐられたり、道を行く人々や祭司長たちや律法学者たちだけでなく、同じように十字架にかけられた人々からもあざけられ、ののしられましたが(マルコの福音書1515節ー32節)、イエス様が「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」ととりなされたのを聞いたひとりの犯罪人はそれでも悪口を言ったもうひとりの犯罪人に「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑を受けているではないか。」とたしなめてから「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」と申し上げると、イエス様は「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」と約束されたのでした。ほめられたり、そしられたり、悪評を受けたり、好評を博しても神のしもべとして生きたことを証しされたパウロのように人のことばよりも、時には自分で自分を責めるようなことばよりも恵みのみことばで生きるようにしようではありませんか。