悪人は公義を悟らない。主を尋ね求める者はすべての事を悟る。(箴言28章5節)

1.詩篇119篇89節ー100節
2.エレミヤ書9章23節ー24節
3.ヨハネの福音書14章22節ー26節
4.コリント人への手紙第一2章7節ー15節

「私は何をもって主の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。全焼のいけにえ、一歳の子牛をもって御前に進み行くべだろうか。」という問いに対して主が求めておられることは「それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」という答えを得たのでした(ミカ書6章6節ー8節)。エレミヤ書33章14節ー15節が「見よ。その日が来る。ー主の御告げーその日、わたしは、イスラエルの家とユダの家に語ったいつくしみのことばを成就する。その日、その時、わたしはダビデの家に語ったいつくしみのことばを成就する。その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を芽ばえさせる。彼はこの国に公義と正義を行う。」と語っているように公義を行うことができるのはダビデの子と言われたイエス様ご自身であることを語っています。ところで、今日の聖句が「悪人は公義を悟らない。主を尋ね求める者はすべての事を悟る。」と語っているように、主の存在を考慮しないと、公義、すなわち公けに果たすべき義務を悟ることができない生き方をしてしまうのではないでしょうか。パウロがキリスト者になる前の状態を「私たちもみな、かつては不従順な子らの中にあって、自分の肉の欲の中にいき、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちのように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。(エペソ人への手紙2章3節)」と、語っているように悪人の生き方をしてしまうのではないでしょうか。どんな時にもキリストにあって義人とされていることを、すべてのことを益としてくださる主が、すべてのことを教え導いてくださる聖霊なる神として内住してくださっていることを忘れずに生きようではありませんか。