神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることことができますように。(エペソ人への手紙1章19節)

1.民数記11章4節ー32節
2.列王記第一18章17節ー39節
3.マタイの福音書18章18節ー20節
4.ヤコブの手紙5章13節ー20節

WBCの大会中不調であっても大切な場面、準決勝メキシコ戦で逆転打を、決勝戦のアメリカ戦でホームランを放った村上選手のことを人々は村神様と呼んでおられるように、パウロが「彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。(ローマ人への手紙1章22節ー23節)」と語っているように、この世にはさまざまな神と言われるものが溢れていますし、パウロがこの世の神、と語っている悪魔(コリント人への手紙第二4章4節)も神と同じように力があるかのように勘違いしてしまう現状があるのではないでしょうか。神はモーセを用いられて多くの奇蹟をもってご自身の力を現されたのですが、イスラエルの民に混じってきた者たちと同調して民も大声で「ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも。だが今や、私たちののどは干からびてしまった。何もなくて、このマナを見るだけだ。」などと大声で泣いて言ったので、主が吐きけを催すほど一か月肉が食べられるようにされることを語ると、モーセは主に無理なことではないか、と申し上げたのでしたが、主は仰られたとおりもセーが思いもよらない方法をもってうずらを与えたのでした(民数記11章4節ー32節)。モーセも民も民に混じって来た者も全員神の偉大さを体験していたにもかかわらず、神の偉大さを忘れたのでした。パウロは「神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることことができますように。」と願っています。私たちが気づかなくても、私たちのうちには復活をもって死に勝利された偉大な神の力が働かれていることを忘れずに、感謝しようではありませんか。