あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それはあなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。(ヨハネの福音書15章16節)

1.出エジプト記3章7節―12節
2.士師記6章7節―16節
3.コリント人への手紙第一1章26節―31節
4.ペテロの手紙第一2章4節―12節

アメリカでは来年の大統領選挙に向けて選挙活動がすでに始まっていますが、人が人を選ぶときには自分たちの生活にどのような影響を与えるかを考えて、選挙演説で語られていることを吟味してだれに、どの政党に一票を投じるかを決めるのではないでしょうか。しかし、すべてをご存知な神の選びは、教会を迫害していたパウロを使徒として召されたように、人の思いによらなものです。モーセにしても、ギデオンにしても、ペテロも三度イエス様を知らないと言って挫折し、自分の弱さを自覚させられた方であったように弱さを覚える人々を主は選ばれているのです。しかも、パウロは、私たちが実際この世に誕生する前に神の選びがあっただけでなく霊的祝福が与えられていることを語っています(エペソ人への手紙1章3節―4節)。イエス様は「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それはあなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」と語ってから「あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。」と、ギリシャ語のアガパオ、すなわち十字架で示された神の愛で愛し合うように語っています。イエス様はにせ預言者を見分けるためには実を見て判断するように話されました。主が仰せられた「実」は聖霊によって与えられる永遠に残る神の愛であり(コリント人への手紙第一13章13節)、その愛が日々実践され豊かにされることではないでしょうか。神の愛は聖霊によって与えられるためにキリスト者しか持っていないことを、十字架で示され神の愛は赦しであることを忘れずに、キリスト者であっても完全ではないので、互いに赦し合いながらキリストの証人として生きるために聖霊の力に満たされるように祈り求めようではありませんか。