ユダの首長たちは心の中で言おう。エルサレムの住民の力は彼らの神、万軍の主にある、と。(ゼカリヤ書12章5節)

1.サムエル記第一17章32節―47節
2.詩篇108篇10節―13節
3.コリント人への手紙第一1章18節―25節
4.エペソ人への手紙1章17節―23節

今日の聖句に「エルサレムの住民」とありますが、エルサレムの住人とは神の民を意味しますから、キリストによって神の子、神の家族とされているキリスト者にも当てはまりますし、「首長」とは集団や組織を統率する人を意味しますから、パウロが「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだをたてあげるためであり、ついに私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するためです。(エペソ人への手紙4章11節―13節)」と語っているように、ユダの首長とはキリストのからだなる教会を建て上げるためにキリストご自身によって召された働き人たちでもあるのではないでしょうか。パウロはその働きは、すべてのキリスト者が信仰に関しても御子に関する知識においても一致するように、すべてのキリスト者に与えられている力がどのようなものであるかを自覚して生きるように整えることであることをも語っています。ところで、「万軍の主」とは旧約聖書における神の呼称で神の統治する権威を象徴するものであり、サウルもサウルの軍隊も戦うことができなかったゴリアテをダビデは一つの石で倒しましたが、彼はゴリアテに向かって「万軍の主の御名によって、おまえにたちむかうのだ。」と宣言されたことから、万軍の主ご自身がダビデと彼が投げた石を用いられたのではないでしょうか。ヒューマニズム的な、心理学の見地からの聖書解釈がなされている状況があります。パウロがイエス様の御名にはどれほどの権威と力があるのかを語っているように(エペソ人への手紙1章20節―21節 ピリピ人への手紙2章10節)、万軍の主とはすべてを創造され、全宇宙の支配者であるイエス様であり、キリスト者の力は神の力、神の知恵であるキリストにあることを(コリント人への手紙第一1章24節)、主の御名をもって祈る時、勝利を与えてくださる万軍の主の御名によって祈っていることを忘れずに、パウロが大胆に福音を語ることができるように祈りを要請されておられるように(エペソ人への手紙6章20節)、働き人の心が守られ、大胆に福音を語ることができるように祈ろうではありませんか。