どうか、私たちの主イエス・キリストと、私たちの父なる神、すなわち、私たちを愛し、恵みによって永遠の慰めとすばらしい望みとを与えてくださった方ご自身があらゆる良いわざとことばとに進むようにあなたがたの心を慰め、強めてくださいますように。(テサロニケへの手紙第二2章16節―17節)

1.マタイの福音書5章43節―48節
2.ローマ人への手紙12章17節―21節
3.エペソ人への手紙2章1節―10節
4.ヘブル人への手紙12章2節―13節

パウロは「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善がすんでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。・・私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」と、心の葛藤を、力の足らなさを語るとともに、「どんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできない。」と神の愛の強さを知る者とされたのでした(ローマ人への手紙7章18節―8章3節及び33節―39節)。ですから、多くの苦難の中にあるテサロニケの聖徒たちのために「どうか、私たちの主イエス・キリストと、私たちの父なる神、すなわち、私たちを愛し、恵みによって永遠の慰めとすばらしい望みとを与えてくださった方ご自身があらゆる良いわざとことばとに進むようにあなたがたの心を慰め、強めてくださいますように。」と、神がどのような方であるかを言及するとともに、あらゆる良いわざとことばとに進むために、神が心を慰め、強めてくださるように祈られたのでした。神から愛されていることを思い起こすと慰められるとともに、立ち上がる力が与えられるのではないでしょうか。どんなことがあっても神に愛されている存在であることを忘れないようにしようではありませんか。